生成AIやロボットが急速に進化する中、「人間の仕事はどこまで奪われていくのか?」という問いは、ますます現実味を帯びてきている。
そんな時代にあって、岡田斗司夫と西野亮廣の対談は、単なる未来予測を超えた「人間の本質」に触れるヒントを与えてくれる内容だった。
この記事では、二人の対話から導き出される「AIに代替されない能力」の本質を掘り下げていく。
ロボットには真似できない人間の仕事とは
対談の中で西野亮廣が語ったのは、沖縄のある居酒屋で出会った「酔い潰れるじいちゃん店主」の話だった。
この店主、最初に酒を飲みすぎて潰れてしまう。
代わりに訪れた客たちが接客を引き継ぎ、その次の客に対応する。
まるでバトンのように、店は「おもてなしの連鎖」で成り立っていた。
この店に「完璧なロボット」がいたら、きっと文句ひとつないサービスが提供されていたはずだ。
だがそこに「ドラマ」も「ぬくもり」も生まれなかっただろう。
つまり、西野が見たのは「人間のズボラさ」や「不完全さ」からしか生まれない奇跡だった。
愛される欠陥という概念
岡田斗司夫はこの話に対して、「それは“キャラクター化”された存在であることが大きい」と指摘する。
例えば、イタリア車が故障しても許されるのは、それが「イタリア車らしい」と思われているから。
つまり、欠点が“味”になっているということ。
ロボットやAIが、この「キャラクター性」を持ち始めた時、初めて人間の土俵に本格的に入ってくる。
ただし、今のところロボットはプロデューサーや開発者が意図してキャラ付けしているに過ぎず、自律的に“愛される欠陥”をデザインすることはまだできていない。
この「自律的なキャラクター形成」が可能になったとき、AIが司会をし、大喜利の判定を下し、人間をジャッジする未来が訪れるかもしれない。
それは、笑いすらAIが牛耳る可能性を意味する。
代替されにくいものは「完成度」ではない
岡田と西野は、ここで一つの答えにたどり着いている。
AIに代替されにくいのは、完璧な仕事や正確さではない。
むしろ、予測不能で、不完全で、時に迷惑ですらある「人間のキャラそのもの」こそが、これからの価値になる。
誰かの「ズボラさ」、あるいは「抜けてる感じ」、あるいは「その人ならではの反応」。
それがAIにとって最大の障壁であり、人間が人間である最大の武器となる。
都市すら「キャラ化」される時代へ
後半では、西野が構想する街づくりの話も登場する。
仮想都市を作り、それを“町”として宣言し、各地の自治体と姉妹都市契約を結び、名産品を売るという構想だ。
ここでもポイントは、「信じ切ること」である。
自分たちの作った都市を、行政ではなく「物語」で機能させる。
このやり方こそが、ディズニーにも勝つ方法だと西野は本気で考えている。
結論:AI時代に残るのは「信じられた人間」だけ
- 人間の欠陥やズボラさは、AIには真似できない。
- 愛されるキャラクターは、欠陥を含んで初めて成立する。
- ロボットがこの「キャラ付け」を内発的に始めたら、人間の優位性は消える。
- 都市や作品、サービスすらも“キャラ”として打ち出せるかが生存戦略になる。
これからの時代、人間に残された領域は「能力」や「技術」ではなく、「愛される存在であるかどうか」なのかもしれない。
そしてその愛され方とは、清潔感や完成度ではなく、
どこかズレている、どこか不器用で、だけど信じたくなるような“にんげんみ”にある。