職場の同僚が勤務中に官能小説を読んでいてイライラする。上司がプライドだけ高くて間違いを認めず腹が立つ。部下がやる気を見せず、つい感情が揺れる。こういった状況は、どの職場にも日常的に存在している。
だが岡田斗司夫は、このような人間関係の摩擦に対して、極めてドライで本質的な視点を提示している。
結論はこうだ。
イライラしているあなたが悪い。
他人の行動は「不快」でも「間違い」とは限らない
職場で官能小説を読む人間がいたとして、それが業務に支障をきたしていない限り、成果で評価される会社においては特段問題にされないことが多い。実際に岡田は「その人が成果を出しているから放置されている可能性がある」と指摘する。
では、それを見て不快に思う側はどうか。
「気持ち悪い」「不潔」「同じ給料をもらってるのが納得いかない」
こういった感情は、人間として自然ではある。だが、その感情を誰かに処理してもらおうとした瞬間、あなたは“問題の当事者”になってしまう。
つまり、気にしているあなたの側に“損害”が発生しており、それを止める唯一の方法は「気にしない戦略」を取ることだ。
自信がないのにプライドが高い上司に正論は通じない
上司の間違いを正そうとする人が、なぜ嫌われるのか。岡田はそれを「戦略の誤り」だとバッサリ切る。
もし「この人はプライドが高い」と分かっているのであれば、その人の間違いを正面から指摘するのは完全に戦略ミスだ。相手が怒り出すのは当たり前であり、それを繰り返す側に非がある。
このとき有効なのは、相手の間違いではなく「発生している問題」に焦点を当てることだ。人格や判断の誤りを責めるのではなく、状況の解決策を“並列の立場”で提案する。
上司を変えようとするのではなく、自分のふるまいを変える。これが“損害を減らす”ための最短ルートだ。
「部下」はいない。「立場が下の同僚」しかいない
岡田斗司夫の人間観には、一貫した前提がある。
この社会に“部下”など存在しない。
あくまでそれは便宜上の表現であって、実際は「立場が上の同僚」「下の同僚」でしかない。したがって、他人の表情や感情、態度に口を出すこと自体がナンセンスなのだ。
たとえば、部下が居眠りしていたとしても、それで成果が上がっているなら問題はない。問題があるなら、管理者ではなく組織として対処すべき。個人的な感情で「ムカつく」「やる気がない」などと評価してしまうと、それは単なる八つ当たりにすぎない。
他人を変えようとするのは怠惰。自分を変えろ
もっとも重要なのは、「他人を変えようとする思考」そのものが、自己責任を放棄した甘えだということ。
人を正そうとするのは、一見すると責任感に見えるが、実際には「自分が不快であることを、相手の責任にすり替えているだけ」だと岡田は語る。
だからこそ、怒りや嫌悪を感じたときにこそ、自分の中の「こうあるべき」「正しくあってほしい」という思い込みを見つめ直す必要がある。
相手を変えるより、自分の認識のフィルターを変える方が、何倍も早く、確実で、持続可能だ。
社会における“正しさ”は、あなたの信念にすぎない
上司は部下より有能であるべき。職場では真面目に働くべき。年上は模範であるべき。こういった“べき論”は、個人の信念にすぎない。
その信念は共感されることもあるが、社会のルールとして保証されているわけではない。
たとえ不快でも、その不快感に正当性を持たせた瞬間、あなたは社会との摩擦を抱えることになる。正しいかどうかではなく、損をしないかどうかで判断することが、現代を生きる上でのサバイバル能力だ。
感情をぶつけるのは「自己満足」でしかない
嫌な相手を攻撃したい、指摘したい、制裁したい。それが感情として生まれるのは自然だが、それを行動に移すのは“手抜き”でしかないと岡田は言う。
なぜなら、それは「自分の内側を処理するコスト」を相手に押し付けているだけだから。
むしろ、見えないところで処理するほうがずっと賢く、戦略的だ。
結論:正しさより、損しない戦略を持て
人間関係で苦しむ人の多くは、「自分が正しい」という前提に立っている。だが、それが通じない相手を前にしたとき、正しさは何の役にも立たない。
感情を出さず、相手を変えようとせず、自分の態度を調整する。
それは卑屈ではない。合理性と戦略性をもった“強さ”である。
あなたの不快感を「社会が処理すべき正義」として扱わないこと。これが、現代社会を摩耗せずに生きるための最前提なのだ。